産業革命以後、結核は工場・大都市・軍隊などを中心に急速に広がり続け、1918(大7)年には死亡率は10万対257.1という最高値を示した。その後死亡率はわずかに減少したが、31(昭6)年の満州事変勃発の頃から戦時体制に入ると再び増加に転じ、39(昭14)年には死亡数は15万4千人を超え、死亡率は10万対216.3、その多くは「国民ノ中堅タルベキ青壮年男女ナルヲ以テ…経済、産業、国防等ニ及ボス影響亦甚大ニシテ新東亜長期建設途上ノ一大障碍タルヲ免レズ(予防会資金造成趣意書)」と、もはや放置できなくなった。この状況に対し皇后陛下は4月28日に「官民克ク力ヲ戮セ結核予防竝二治療ノ達成ニ努メムコトヲ望ム」との御令旨を下された。政府はこの令旨を体し、国を挙げて「財団法人結核予防会」を設立し結核対策を推進することとなった。
皇后陛下の思し召しを受け、結核予防会総裁には秩父宮妃殿下、会長は厚生大臣、理事長は厚生次官、副会長には財界と学会から代表を選び、はじめは厚生省内に事務所が設けられた。予防会は創立後、年表に示すように活発に活動を開始したが、2年余で太平洋戦争に突入、44(昭19)年には戦局が急速に悪化、予防会の活動はほとんど不可能となった。
| 年・月 | 時代区分・時代背景 | 年・月・日 | 予防会の事項 |
|---|---|---|---|
| 1939 | 戦時体制期 | 39・4・28 | 皇后陛下より結核予防事業を推進すべしとの御令旨を賜る |
| 39・5・22 | 結核予防会設立 | ||
| 39・8 | 第1回理事会:予防会規則、事業計画等決定(注1) | ||
| 39・9 | 保生園開園式(注2) | ||
| 39・11 | 結核研究所を保生園に開設(注3) | ||
| 39・11 | 第1回結核予防医講習会開催 | ||
| 40・2 | 結核予防模範地区10ヵ所設定(注4) | ||
| 41・12 | 真珠湾攻撃、対米英蘭宣戦布告 | 41・2 | 指導看護婦養成所開所 |
| 44・4 | 結核研究所清瀬に移転完了 | ||
| 45・8 | 敗戦 | 45・8 | 敗戦で動産の大部分を失う |
注1:第1回理事会(1939年8月)
第1号議案の「財団法人結核予防会規則」から第11号議案まで基本的事項がここで決められたが、特に重視されるのは第3号議案「結核研究所規定」、第8号議案「事業計画に関する件」等であった。事業計画は、
の広範な6項目にわたった。また、初年度の予算566万円余も決められた。
注2:保生園開園式(1939年9月)
第一生命保険相互会社は結核対策実施の重要性を早くから認識し、35(昭10)年7月「財団法人保生会」を設立し、結核予防センターとでも言うべき健康相談所(保生会館)を水道橋に、療養所を東京府下東村山村に建設して実行に取り掛かった。保生会館は既に完成し、療養所の完成直前に、皇后陛下の御令旨を戴いた財団法人結核予防会が設立されると、保生会は結核予防会に統合し大規模な体制の一環として運営した方が所期の目的達成に有効と判断し、保生会の財産一切を結核予防会に寄付することと決定した。
東村山の療養所は9月25日に開園式が行われた。八国山南面の丘陵地帯一帯の41,544坪、患者収容定員は214人であった。なお、第一生命からの寄付の経緯を記した記念碑は、新山手病院玄関前の前庭に建てられている。
また、結核予防会本部は初め厚生省内に置かれていたが、12月10日に水道橋の保生会館(現・本部)に移った。
注3:結核研究所の開設(1939年11月)
結核予防会の事業計画の重要な事項として「結核研究所の設置」が挙げられ、研究所長には当時の東京帝国大学総長 長与又郎が起用された。設立当時には健康相談所も療養所も研究所の一部として健康相談部、療養部に属し、結核研究所は研究部、療養部、健康相談部、事務部、大阪支部の4部1支所からなる大研究所であった。従って、研究所の方針はそのまま予防会全体の行動指針となったが、初代の長与又郎所長の構想は誠に雄大であった。「この研究所は単に結核の純理論的方面のみを攻究するのではなく、学問的研究と臨床的応用の結合に重点を置き…結核の行政もまた確固たる学術的根拠を有する原理の上に建てねばならぬ。…如何に立派な制度が出来ても活動する医師および技術者に人を得なければならない…研究所はこれらの人々の養成についても大いに力を尽くすつもりである」という気宇壮大なものであった。研究所は東京府下清瀬村に69,563坪の広大な土地を購入し建設にかかったが、その前の39(昭14)年11月、この方針に基づきとりあえず保生園内に研究所を設け、同月第1回結核予防医講習会、12月には結核予防看護婦講習会を開き、翌年4月にはBCG特別研究を開始するなど徐々に活動を開始した。
清瀬の結核研究所で第1回の結核専門医講習会が開かれたのは48(昭23)年2月で、全国の第一線機関から18人が参加し、全員泊り込みで実習を重視した6ヵ月の長期研修が行われた。2008(平20)年までに結核研究所が行った研修に参加した医師、保健師、放射線技師などは、地区別講習を含めると総数95,110名にのぼっている。
注4:結核予防模範地区10ヵ所の設定(1940年2月)
戦前の結核対策は、ツベルクリン反応検査を繰り返して陽転者(新感染者)を発見し、陽転後1年間の生活を規制して発病を防ぐことが中心であり、可能な地域ではBCG接種で予防を、さらにX線間接撮影による集団健診を行って患者の早期発見に努め、発見患者には安静療法、気胸療法を実施することであった。これらの対策を系統的に実施し、地域の結核を減らすとともに、そのデータを集計・分析して改善策を探ることは当時の重要な研究課題であった。このため、予防会では名古屋市、八幡市などの市街地、愛媛県、青森県などの農村など全国に10ヵ所の結核予防模範地区を設定し、実際活動を開始した。ただ、残念ながら、戦局の急速な進展で十分な成果を得るには至らない地区も少なくなかった。