理事長あいさつ

 
 
 私は長い間国内外の感染症対策に関わってきましたが、この度結核予防会の理事長を拝命いたしました。この機会に、結核予防会の歴史を振り返ってみたいと思います。
 
【我が国の近代化と国民病としての結核】
 1910年代の我が国では日露戦争もあり、国内の近代化・工業化が加速し、過酷な労働条件と労働環境のなかで、多くの労働者が結核で倒れました。古今東西、結核による死亡者は男性が女性より多いとされていますが、1910(明治33)年から30年間は、製糸工場で働く当時女工と呼ばれていた多くの若い女性が結核で命を落とし、女性が男性の死亡率を上回るという例外的な期間でありました。この時代、結核はまさに国民病でした。
 
【結核予防会の設立およびその背景】

 このため、1913(大正2)年、北里柴三郎博士の強力なリーダーシップの下に、本会の先駆けとなった日本結核予防協会が設立され、様々な療養施設の開設や普及啓発活動が民間を中心に行われてきました。しかし、その後も結核の勢いはとまらず、1931(昭和6)年から満州事変が始まり、軍に入隊する青年を結核から守ることなどが、当時社会全体の喫緊の課題になり、1938(昭和13)年には厚生省が設立されました。

 そうした中、1939(昭和14)年、皇后陛下の令旨を受け内閣の閣議決定により、秩父宮妃殿下を総裁に仰ぎ、結核予防会が設立され、本会の結核との闘いの第一歩が始まりました。発足に当たっては、多大な寄付を寄せられた第一生命保険相互会社(矢野恒太氏)の力強い支援がありました。
 

【結核予防会設立後の取り組み】

設立から終戦までの草創期:1939(昭和14)年の令旨奉載結核予防国民運動や東京での結核予防展覧会など本会発展の基盤が構築されました。

 

戦後から1965(昭和40)年まで:複十字の名前にちなんで結核で苦しむ人々のために複十字シール募金(https://www.jatahq.org/headquarters/seal/seal/)が始まりました。また、長野県の学童の集団発生を契機に結核予防婦人会が誕生しました。

 

1965(昭和40)年から今日まで:1960(昭和35)年から1980(昭和55)年までの20年間で、結核罹患率は、年間10%という世界的にも稀な速度で減少しました。その後1990年代の後半には罹患率などの一時上昇がみられ、1999(平成11)年には、結核緊急事態宣言が発出されましたが、全体としては我が国の結核対策は確実に前進しました。

 

 こうした背景を踏まえ、本会は2007(平成19)年、新たに、①国内の結核対策、②結核問題に関する国際協力の推進、強化、③慢性閉塞性肺疾患(COPD)、肺がんなど非結核性呼吸器疾患の対策、④結核対策の経験を生かした生活習慣病対策(特に健康診断)を活動の4本柱と位置づけました。こうした活動を背景に、本会は2010(平成22)年に公益財団法人として認可されました。

 さらに、1994(平成6)年以降は、秋篠宮妃殿下(現皇嗣妃殿下)を総裁として推戴し、妃殿下には様々な活動に参加していただいております。総裁秋篠宮皇嗣妃殿下は、2018(平成30)年に国際結核肺疾患予防連合(IUATLD)の名誉会員の称号を受けられました。

 
【結核予防会のこれから】
 先人の心血を注いだ献身のお陰で、結核はもはや国民病ではなくなりました。しかし、今でも世界人口の25パーセントが結核に感染しています。また、今回の新型コロナウイルス感染症パンデミックを契機に、結核をはじめ感染症対策の重要性が再認識されてきました。我が国でも、高齢者、外国出生者、生活困窮者などの感染増加や薬剤耐性結核など新たな課題に直面しております。
 私どもは、こうした国内外の新たな健康課題の解決のために、先人の知恵と経験に学びながら結核根絶のために全力で取り組む所存であります。本会の結核との闘いはこれからも続きます。どうぞよろしくお願いいたします。